こんにゃくん@史学徒

こんにゃくの妖精です。都内の大学で歴史学の研究をしています。オーストリア=ハンガリー二重帝国史を一生やっていくのではと思います。

歴史的事実の積み重ねに意味はあるのか

 今回は歴史的事実の積み重ねに意味はあるのか、ということについて書いていきたいと思います。現在の歴史学は、基本的には発掘された事実の積み重ねです。特に日本史では自国史ということもあり、事実の発掘そのものにかなりの重点が置かれているように思われます。

 では発掘された事実の積み重ねに意味はあるのでしょうか?なぜこのような問いかけをするのかというと、個々の論文で発掘される歴史上の事実は、これまでで述べたように研究史上の論点を踏まえたものだとはいえ、歴史学を生業としない人から見ると非常に細かくてどうでもいいものだからです(一番最初の回で取り上げた論文のタイトル(=その論文の中で明らかにしようとしていること)を見てもそれはわかるでしょう)。今回は「歴史的な事実の積み重ねに意味はあるのか」というこの問いに対して、「歴史学はどのようにして社会の役に立つ、あるいは立つべきなのか」という観点を踏まえつつ答えていきたいと思います。

 その問いに対する答えを一言で述べると、一つひとつの歴史的事実の積み重ねが大きな、元からある全体の枠組みを揺るがし、また新たな枠組みを作り出すかもしれないという意味で、事実の積み重ねは意味をもつと私は思います。リュシアン=フェーブルは『歴史のための闘い』の中で、この点について科学の例えを用いながら次のように述べています。

 「(前略)この間、生命科学の領域でも、微生物学によって引き起こされた類似の革命が進行中でした。観察の結果、無数のミクロン大の細胞で構成される有機体という概念が現れたのです。肉眼で観察される生物が物理化学システムであることがますます明瞭になってきたのに対して、微生物学が明らかにした有機体は重力などの力学法則の影響をほとんど受けない有機体でした。それらは少なくとも単純な有機体が古典力学法則に支配されると考えられていた時代に生まれた理論では、説明のつかぬものです。(中略)こうして人間は突然世界を替えました。(中略)我々がこうして把握した有機体,最近の研究が明らかにした有機体は、突然いわば「我々の良識」を凌駕しそれを傷つけました。」

 「こうして1つの世界概念が,すなわち、何世紀にもわたり幾世代もの学者によって作り上げられた抽象的·適合的·総合的世界表象が一挙に崩壊しました。突然,我々の知識が我々の理性からはみ出し、具体的なものが抽象的なものの枠組みを打ち壊し、世界をニュートン力学または合理力学によって説明する試みが完全な失敗に終わりました。そこで古い理論を新しい理論で置き換え,人びとがこれまでその上に生きてきた科学的諸概念の一切を点検する必要が生じたのです。」

 少し長い引用となりましたが、フェーブルが言わんとしていることを整理しておきたいと思います。わかりにくかったでしょうに、ここまでお付き合いくださってありがとうございます。顕微鏡が発明される以前の世界では、肉眼で見えるものがすべてでした。そしてその時代に存在していた科学の理論は肉眼で見えるものに限っては「正しい」理論でした。しかし微生物学の進展により肉眼では見えない、「無数のミクロン大の細胞で構成される有機体という概念が現れた」のです。それらのミクロな有機体は顕微鏡がなかった頃の昔の理論では説明しきれないものでした。結果として微生物学の進展による有機体の発見という事実が、従来の科学的理論という大きな枠組みを破壊することになったのです。

 少し前置きが長くなりましたが、同じことは歴史学にも言えると思います。ある意味ショッキングな例として、近年のナチズムをめぐる動向を例として挙げようと思います。

 1990年以前のナチズム研究では、ナチスホロコーストは特別頭がおかしい連中がやったことで、一般の人々はナチスに「仕方なく巻き込まれた」とする見方が主流でした。こうした見方を変えたのがアメリカの政治学者ダニエル・ゴールドハーゲンが1996年に出版した『ヒトラーの意に喜んで従った死刑執行人たち』です。彼はナチズム体制の中で「普通の人々」がどの程度の主体性を持ちえたのか、すなわちヒトラー体制のもとでどの程度自由に行動できたのかをテーマとして、ドイツの普通の人々が「自らの意志で」ホロコーストに加担し戦争犯罪を行う様を描き出しました。アイヒマン裁判(注)に見られるように以前から普通の人々の主体性及び行動可能性、すなわちどの程度当時のドイツの人々は自由に行動でき自分で意思決定ができたのかという問題に関する議論はありましたが、彼のこの著書はドイツに「ゴールドハーゲン論争」と言われる大きな論争を巻き起こしました。発掘した個々の歴史的事実が、我々の世界の見方へとつながる「大きな歴史観」を揺るがした一つの例です。

 このように個々の歴史的事実の積み重ねがそれまでにあった大きな全体の枠組みを揺るがし、また新たな枠組みあるいは新たな世界の見方を作り出すかもしれないという意味で、事実の積み重ねは意味を持つといえます。そうしたところに歴史学の社会的な有用性のうちの一つはあるのではないでしょうか?

 

 以上若干冗長になってしまいましたが、ここまで5回にわたって書いてきた歴史学における「ミクロな視点」と「マクロな視点」についての話はいったんここでおしまいです。ここまでで書いてきたことはあくまで偉大な先人たちの研究をまとめたものであり、学術的な意味での新規性はありません。しかし、最初の回でも言ったように歴史学の世界で当たり前とされていることと、普通の世の中の人の考える歴史学には大きな隔たりがあります。これまで書いてきたことがそうした隔たりを埋める助けとなればうれしいことこの上ありません。かなり冗長になってしまったので、このあたりでひとまず筆を置くこととします。最後までお付き合いくださりありがとうございました。

 

(注)アイヒマン裁判とは、ナチスユダヤ人集団殺害(ホロコースト)の責任者の一人であるナチス幹部アイヒマンを巡る裁判のことである。第二次世界大戦後、アメリカ軍に捕らえられたが脱走し、アルゼンチンに潜伏。1960年イスラエルの特務機関に逮捕され、イスラエルに連行されたうえで裁判にかけられた。アイヒマンは「自分は祖国ドイツの法と戦争の法則に従っただけである」と最後まで無罪を主張したが、人道に対する罪、戦争に対する罪を理由に絞首刑に処された。